ライオン&ヒーリーハープの歩み

ライオン&ヒーリーハープの歩み

ライオン&ヒーリーハープの歩みそれは、1864年5月のこと。ボストンからやってきた二人の若者は、春の嵐で通りが泥の海と化したシカゴのクラーク通りに佇む、今にも壊れそうな木造の建物に敷設された倉庫の階段からの風景を、なかば絶望的に見下ろしていました。

年長のライオンが「ボストンへ帰ろう」とつぶやき、続けて「(代えがいないのだから)少なくともクビにはなるまい」と言いました。若干24歳だったヒーリーは、階段に腰を下ろし、「いいえ、私は二度とボストンへは戻りません」と応えました。

二人は、音楽出版社のオリバー・ディットソンから、彼の出版物のアウトレット販売をする楽譜店を開くためにシカゴへ派遣されていたのです。1864年10月14日、彼らは前出のワシントン通りとクラーク通りの角にある、ディットソンの楽譜を抱えた倉庫内に小さな店を開きます。かつてディットソンは二人に、「運が良ければ、10年間で年間10万ドルのビジネスになるぞ」とけしかけていましたが、彼らはたった1年足らずで予想業績を上回りました。開店からわずか6日後、南北戦争シャーマン将軍が劇的な進軍号令をかけた大ニュースと同じ日に、シカゴトリビューン紙で最初の広告を掲載。ライオン&ヒーリーがその後、楽器の販売と製造へと商機を拡大するのにそれほど時間はかかりませんでした。

しかも、彼らはついていました。1871年のシカゴの大半が焼けたといわれる大火の際も、再建するのに十分な保険を購入していたという理由だけで生き延びました(彼らはちょうど1年前に別の壊滅的な火災に見舞われており、その教訓から保険に入っていたのです)。また再建中、彼らは別の会社のピアノ事業も買収し、代表権も得ていました。それがシカゴの名門スタインウェイ&サンズ・ピアノでした。以後、長年にわたって会社にとって重要な関係になっていたのは言うまでもありません。実際、チャールズH.スタインウェイは、1905年に亡くなったヒーリーの葬式では名誉棺側添人となり、1964年にはライオン&ヒーリー創立100周年では記念の絵画を贈るほど、両社は良好な関係を維持してきました。


再建した後、ヒーリーが着手したのが、当時では斬新だった新しい販促ツールであった「絵本」、すなわちイラスト入りのカタログの開発でした。無論、当時は物の値段などは時価に等しく、サンプルを客に見せて定価で売る販売の慣習などは希少でした。

またヒーリーが、「世界でこれまでに見た中で最高のハープ」を作ることを決めたのもこの頃です。ライオン&ヒーリーの修理店が、常に大量の作修理業が必要なハープたちが絶え間ない列をなしていることの気づいたとき、彼はそのプランを実行に移します。設備を更新するのには何年もかかり、研究開発にお金が注ぎ込まれました。最初の試作ハープは130年前の1889年に完成し、1979年にライオン&ヒーリー本社に戻るまでシカゴのモーガンパーク高校で毎日演奏され、現在はイタリアのデルアルパにあるヴィクトール・サルヴィ美術館に展示されています。ライオン&ヒーリーハープはそうした変遷を経て、世界中で販売を開始し、今では世界の偉大な交響楽団における代表的使用ハープとして認識されるようになったのです。

1890年頃、ライオン&ヒーリーはダウンタウンのすぐ西にある工場でハープの製造を開始しましたが、現在でも同じブロックに工房があります。また、1890年にスタイル23ハープが導入され、今日では世界で最も有名なハープとなっています。ライオン&ヒーリーの職人による木工芸術を駆使し、王冠、支柱の上部、台座、脚などに装飾された花の彫刻が施され、支柱の下部にフルールドリスのパターンが組み合わされています。

1893年には、シカゴで開催された万国博覧会で、ライオン&ヒーリーはテラコッタと金で飾られた2階建てのパビリオンを開設、自社製ハープを披露し、フェアの6か月間毎日コンサートを開催しました。ハープの展示会では、この伝統的楽器への多くの改良により、審査員から最高奨励賞を授与されました。


1900年代初頭になると、機械的に再生された音楽や楽器が音楽業界を席捲します。エジソンが発明した世界最初の手巻きの蓄音機とワックス円筒形のレコードは、ライオン&ヒーリーで最初の曲のいくつかを奏でました。世紀の変わり目までに、ライオン&ヒーリーは世界最大の音楽メーカーになっていました。著名なすべての音楽出版物に楽譜が掲載されました。高級ピアノとオルガンの多様なセレクション。主なマーチングバンドは、ライオン&ヒーリー製の楽器で演奏される音楽のリズムに合わせて行進したものです。有名なヴァイオリニストは、その世界から集まる楽器の宝庫の中から珍しい名器を購入しました。金を戴冠したライオン&ヒーリーのハープは、シカゴから東京までの主要交響楽団とオペラのオーケストラに立ち、蓄音機ヴィクトロラスは急速にアメリカの家庭におけるレコード音楽愛好の必需品になりました。

ラジオ放送業界は、1922年4月にリヨン&ヒーリーが民間ラジオ放送を後援した最初のシカゴ企業のひとつになったとき、まだ揺籃期にありました。番組表を発表した新聞広告では、「全放送がライオン&ヒーリーによって占拠される」とまで形容されたほどでした。

1928年になると、伝説のハープ奏者カルロス・サルツェードと共同で設計した、サルツェード・モデルが開発されています。今日でも、その大胆なラインと角度を取り入れた、アールデコ・スタイルの印象的で紛れもなく時代を超えた最も有名なモデルひとつです。

1935年に革新的な手段が会社によって導入されました。大恐慌による不況はまだ終わっておらず、世帯収入も回復していなかった当時、全ピアノ・メーカーは、より少ないスペースでより低価格で優れたピアノを開発するという問題に直面していました。鍵は都会のアパートと小さな家が握っていました。その解決策が、現在の「アップライト・ピアノ」であり、ライオン&ヒーリーはこの重要な楽器を展示、在庫、販売した世界初の小売業者であり、ピアノ業界の活性化にも貢献したとされています。

1959年には、革新的な構造のモダンなスタイル30ハープが導入され、堂々としたフォーマルな外観と、交響曲奏者の間で人気のある独特のサウンドを与える建築形状を備えていました。3年後には、ライオン&ヒーリーは、初心者や愛好家向けの手頃な価格の入門ハープである、新しいレバーハープ「トルバドール」を発表するのです。

1964年、会社は優雅で新しい、現代的なスタイルのハープである「センテニアル・モデル100」を、同社創立100周年、ライオン&ヒーリーハープ制作を始めて75周年で世に問いました。1970年代まで、ライオン&ヒーリーのハープ部門は繁栄し続けましたが、同時にもはや他の製品やサービスの全ては維持することができないと認識していました。同社は、以降ハープの製造と販売に専念することを決定したのです。

1982年までに技術が格段に進歩したことで、ペダルハープは丈夫で長持ちするようになり、買い替え機会が大幅に縮小されました。そこで、1985年からライオン&ヒーリーハープは、小さな非ペダルハープであるレバー・ハープを大量にを生成した、最初のメジャー・ハープメーカーとなりました。コンパクトなサイズで、どんなに小さなプレーヤーでもすべての弦にアクセスでき、軽量で持ち運びも簡単です。また、同時期に開発されたのは、繊細でエレガント、デザインの優れた手頃な価格のペダルハープ「スタイル85」です。以後、スタイル85シリーズは5つのサイズを擁す、世界で最も売れたモデルのひとつに成長しました。

Victor Salvi

1970年代から80年代にかけてライオン&ヒーリーハープは、不確実な未来に直面します。会社の所有権を手放す一方で、再建者として手を挙げたのは、シカゴ生まれでイタリアでサルヴィハープスを創設した故ヴィクトール・サルヴィでした。彼はライオン&ヒーリーハープを自己のビジネスグループに加え、1889年以来のように、今までどおりハープの製造のみに注力できる体制を敷き、その友好的決断にハープ界は驚愕しました 。

2003年、ライオン&ヒーリーハープはシルエットを発表します。固定演奏およびポータビリティを可能にする洗練された、革新的なデザインの電気レバー・ハープ。7kg程度という比較的軽量設計で、奏者はステージで音楽と同化した動きを自由に表現することができるようになりました。

現在、ライオン&ヒーリーハープスは、シカゴ市内の高架鉄道ループのすぐ西にある工場でハープを手作りしており、世界で最も敬愛されている楽器メーカーのひとつです。

ハープコミュニティのリーダーとしての役割を自任しているライオン&ヒーリーハープスは、USA国際ハープコンクールやイスラエル国際ハープコンテストなどの権威あるコンクールに優勝賞品を提供し、コンサート、委員会、出版を促進することで、ハープとハープ音楽をサポートしています。先般、シカゴのエマニュエル市長は、同社の生誕150周年を祝いながら、2014年6月4日をシカゴの「ライオン&ヒーリー・ハープデー」とする旨宣言しました。「ライオン&ヒーリーハープスは、シカゴ市の集団文化に永続的な影響を与えてきたことを認める」と。

先般、シカゴのエマニュエル市長は、同社の生誕150周年を祝いながら、2014年6月4日をシカゴの「ライオン&ヒーリーハープデー」とする旨宣言しました。「ライオン&ヒーリーハープは、市の集団文化に永続的な影響を与えたことを認める」と。